#2 日本の教育事情について考えました

中等教育(中学・高校)時での留学は現在においても一般化しているものではありません。中学時代に日本の学校をやめて留学をするとなると、義務教育の問題、家族の絆の問題、本人の精神的未成熟などが問題となり、相当数の留学希望者やその家族が周囲や学校の常識の壁に突き当たり、留学を断念しているケースも多いと思います。

卒業を目的とした中高留学は、異文化体験賛成、しかし時期尚早ということになる場合が多いと思います。

 

高校生までは受験に差し支えない程度に短期研修などで異文化を体験し、しっかり勉強して大学時代に本格的な留学、あるいはワーキングホリデーなどの年単位での異文化を経験する活動を行なうことが日本では一般的でしょう。さすがに年功序列や終身雇用はほぼなくなりましたが、高度成長からバブル時代にかけての学歴、出身校偏重傾向が今でも、あるいは今だからこそ中等教育においては明確なのかも知れません。

 

グローバル化で必要とされるのは、順応性、適応性、自主性など、目標を設定し、問題を自ら解決するという力ではないかと思いますが、それらの要素の具体的な実践はおおよそ大学に先送りされていて、中等教育時代というのは、受験に対する勉強ということが最優先されているように思います。

 

高校まで、学ぶべきことを学び、大学で雄飛するという考え方における学びとは、単純な暗記、覚えこみであると思います。なぜ学ぶのかというシンプルな疑問は学ぶ側に必要ないのかもしれません。小さいときから暗記や知識吸収だけの訓練をされ続ければ、おのずと子どもたちの自然への好奇心や、興味といったことはしぼんでゆきます。勉強が人工の環境のなかで、特定の情報を基にして行うことがいつしか子どもたちにとって「学び」の当たり前になってしまうことは残念です。

 

本来教育とは、自己発見→自己実現→社会貢献というかたちで進んでゆくと思います。そのなかで、必要な知識をつけ、問題解決の方法を学んでゆくことが、成長ということだと思います。「自分とは」という問いに徹底して納得の行く回答が出ない限り、なぜ知識を身につけることが必要かということに対しても納得が行かないのが学ぶ側の論理でもあると思います。

 

「自分とは」に対する解答は決して難しいものではありません。誰でもそれを真剣に求めさえすれば、おのずと明らかになる。詰め込み教育がそれを阻害していないでしょうか。

日本の教育事情を考えてみました

「教育は子どもの未来を決定する極めて大きな要因となる」、私たちはそのような観点から彼らが受けるべき最良の教育を願い、望み、求めていと思います。最良の教育とは何かを考えるとき、当然のことながら、初等教育中等教育、高等教育というそれぞれの段階を想定します。どのような小学校がよいのか。そして小学校から、ベストな中学校に、中学校から、ベストな高校に、高校からベストな大学に、そして自分の望む社会人へと道を歩んでいくわけです。

 

ベストを言い換えると安定となる、私はそのように思います。そして、安定した生活は、安定した収入が約束されなければならず、そのために間違えのない教育をそれぞれの段階で選択してゆくわけです。では安定した生活を約束する教育とはどのような教育でしょうか。

 

教育を受ける本人にしてみると、なぜ算数、国語、理科、社会、はたまた英語などがどうして自分の将来に安定をもたらすのか、いくら親や周囲の人々から熱心に、ときに叱るようにして説明されても、到底納得できるものではないのかもしれません。子どもたちが興味や好奇心をそそられる目の前にあることと、公式、作文、暗記といった「強いられて勉める」勉強との間には相当な隔たりがあります。

 

それでもゴールが明確で、そこまで達すれば必ず「安定」を手に入れることができた時代もありました。日本の高度成長期です。作れば売れる、どんどん伸びる時代ですから、需要と供給のバランスは明らかに売り手市場であり、買うほうが求めたのは、学歴や出身校などのある程度まではその人を保証できる事柄であったのではないでしょうか。

 

戦後のどん底から40年余りで世界の頂点に立った日本の経済に世界は驚き、感嘆し、賞賛もしましたが、高度経済成長に置き去りにされた私たちの文化、伝統、プライドといったことを真剣に再考し、見出さなければならない時期に私たちは直面している、せざるを得ないのだと思います。不登校児の増加、学校崩壊などにこころを痛めている若者が増大し、結局ニート不定期雇用などの悩める人が後を絶たない状況です。

 

日本が欧米に追い付け追い越せとわき目も振らず、必死に努力し結果も出て、豊かさと便利さを手に入れた途端に、こんどはグローバル社会が一斉に日本のライバルとなり、より良い製品をより安くというかつて日本が欧米に対して行った方法でモーレツに日本を経済的に抜き去ろうとしているのが今の世界の中の日本であると思います。

 

グローバル社会の現実が順をおって私たちの日常に波及し、その対策が考えられる中で、現代の子どもたちをリードしている価値観はグローバル化しているとは到底思えません。理念→改革→混沌→矛盾→適応という順番で社会は転回してゆくと思いますが、理念先行で子どもたちが結局負うところの精神的な負担が不自然に重すぎると私は思います。

 

グローバル化とは、結局最も良いことを選択することの自由化であると思います。それゆえに、最も良いという価値観が確立していないと、選びようがないともいえます。あえて、中等教育の段階で世界を目指すのは、そこに子どもたちの個性の伸長と考える力を養い、自分の納得できる人生の選択の可能性があるからです。

 

私は留学の可能性を子どもたちの将来の可能性とオーバーラップさせます。それがこれからの世界の中の日本を創り出すと考えています。

これからの家族3 - 「3低」時代の留学

私の会社の経理を見てくれている税理士さんがユニークな新聞記事を紹介してくれました。日経に掲載されたそうですから、皆さんのなかにも読まれた方があると思います。バブル時代の女性の結婚相手、「3高」から、女性の意識ががらりと変わり、「3低」になったというのがその内容です。3低とは、「低姿勢」、「低依存」、「低リスク」だそうです。

 

これからの男子は、威張らず(低姿勢)、自分のことは自分でできて(低依存)、会社が倒産などしても路頭に迷うリスクを負わない(低リスク)、すなわち手に職があるという主旨が書かれていました。自立した女性にしてみれば、「当たり前でしょ」と言われそうですが、いちいち「低」の心得が求められる今どきの男子、ぜひ真摯に3低を受け止めてもらいたいと思います。

 

この3低という概念は男性だけでなくかなり普遍的な人の生き方を含んでいると私は思います。見ず知らずの土地で、見ず知らずの人と接し、まして見ず知らずの

言葉、食べ物、習慣などと続く留学の初期状態で、威張りたくても威張れないのが留学生です。もちろん、威張る必要などありませんが、新たに生活を学ぶという意味では、低姿勢は文化をこえた不可欠な要素でしょう。

 

低姿勢と自己主張は違います。低姿勢でも自己主張は明確にできます。

 

留学における低依存は、自明の事柄ですから、説明の必要すらありません。そして、低リスクですが、これはこれからの世界に求められている概念ともいえるのではないでしょうか。ボーディングスクールにおける生徒指導の根本、You are specialやmake a differenceをそのまま応用すれば、こうなると思います。特に大量生産、大量消費が全く実情に合わなくなった日本においては、スペシャルなもの、オンリーワンであることなどがどんどん市民権を獲得しつつあるように思います。

 

しかし、実際はスペシャルとかオンリーワンというのは、ジェネラル(一般的)やメニイ(たくさん)よりも難しく、それにいたる道は決して簡単ではないと私は思います。

 

もし、子どもたちが小さな頃から知識を増やすことを学習という名のもとに訓練され、テストの点数が高いことが優れた人という価値観を教育されれば、どこにオンリーワンを見出せというのでしょう。どこにスペシャリティーを発揮せよというのでしょう。

知識量の競争に勝つことが現代教育のすべてとは言いませんが、多くの子どもたちが、そのやり方に行き詰まっていることも事実と思います。

 

子どもが幼少の頃から、彼らのスペシャリティーを認め、育て、オンリーワンのプライドを持たせるように導くこと、それが教育の原点にあると思います。子どもが幼少でなくても、スペシャリティーは必ずあり、オンリーワンとして大切にできることも、

家族であるならたくさん探し出すことが可能です。もちろん、「ある」というポジティブな前提に確信を持つことが、親の基本姿勢にあることは言うまでもないことです。

 

留学を決意した本人と家族に、英語圏で通じるスペシャリティーを探すこと、私が基本においているコンサルタントのこころ構えです。これからの家族のために、このこころ構えを十分に発揮したいと思います。

 

これからの家族2 - 子どもたちの個性

<昨日のブログに続きます>

 

3人のお子さんのいるお母さんとの会話です。

「上の子でうまくいったことが、下の子ではうまくゆかないこともあります。」

-そうですね。それぞれ個性が違いますね。

「一番上が小さなころ、叱るときに、『そんなことをする子は出てゆきなさい』というと、『ごめんなさい』と涙ながらにすなおに言うことを聞いたのですが、二番目に同じようにすると、プイッとそっぽを向いて自分の部屋に行ってしまいます。三番目は、本当に家を出て行ってしまいます。」

-そうですか。

「子どもは一人ひとり違っていて、それなりに叱り方を変えないといけないと

切実に思いました。」

-なるほど。

「性格もそれぞれが私と父親のそれを引き継いでいるようです。こつこつとやるタイプか、一点集中型かですね。一番上は堅実で着実ですが、二番目、三番目は感覚で進んでゆきます。三番目(留学中)は現状に満足していないようです。まだまだ忙しいと言っています。勉強が足りないと言っていますが、先生からのコメントですこし安心しました。私は『F』らなければよいと言っているんですが、

あの子の挑戦はつづいているようです。」

-留学当初からするとずいぶんと変わりましたね。

 

成績解説を終えたあとのお母さんとの雑談のなかで、最近本人との会話の時間が長くなったとお母さんは言います。本人の身の回りで起こったことをつれづれと述べている段階から、あるテーマに対して、What do you think?と意見を求められることも

多くなったようです。お母さんも社会問題、時事問題、学校の現状など、知っておくことが多くなります。

 

日本のこの実情にあって、「決められない」政治家に対して、「(彼らの)お母さんがそんなふうに育てたのよね」というお母さんの一言に私はハッとしています。そしてあらためて「教育」について考えます。基礎教育はとても大事なことだと思います。

知識重視、競争重視、受験戦争を勝ち抜くということの結果が、最も重要な決断ができなく、単なる意見のまとめ役、調整役であるとすれば、本来の教育はその機能を果たしていないのではないかと思います。

もちろんこれは仮説です。

そして、この「仮説」はもしかすると、日本のみならず、グローバルなものではないかと思います。YES YOU CANのスローガンのもと、鳴り物入りで大統領になったオバマさんもヨーロッパや中東で威力をふるった権力者たちの失脚の内側を見ると、そもそも彼らの基礎教育はどうだったのだろうと思います。

 

それぞれの子どもたちの個性は幼児期に決まると専門家は言いますが、性格は遺伝的要素も含めて生まれた時から決まっているにしても、その応用である基礎教育はいかようにもなると私は思います。私のお世話している子どもたちと親とのやり取りを見ていると、子どもは10代であっても親から多大な影響を受けると容易に感じ取れます。

 

これからのファミリー、基礎教育の徹底がキーワードになると私は信じています。

これからの家族 - ボーディングスクールコンサルタントとしてのおもい

私の経験から申し上げますと、私と生徒の親とのコミュニケーションは9割がたお母さんとのものであるといえます。私がコンサルタントを始めて30年間、世の中は劇的に変わりましたが、お母さんとのコミュニケーションは劇的には変わりません。初期のカウンセリングで対面し、留学する理由、わが子の現状を聞き、私は留学のポイントをえ、渡航から卒業までの概要を話し、質問にお答えし、ご縁があるご家族のためにコンサルティングをしてきました。

30年前と比べると、情報ネットワーク革命が起こったがゆえに確かに親の留学に対する知識は格段に増えたと思います。しかし、いざ学校選定となると、どの情報を信じてよいのか見当もつかないという状況は今も昔も同じです。

情報の精度という点では、最後は人なのだと思います。

自分の子どもにどこが留学先として適切なのかということは友人、知人の留学経験者からいろいろと詳しく留学情報が得られても、実際に子どもを留学させているご家族とじっこんであっても、それぞれのケースが我が家にあてはまるかどうかは、だれも保証できないのだと思います。私にも最適の学校の保証はできません。私がこころがけていたことは、親の決断に必要な情報を正直に、誠実に、留学希望のご家族に伝えることでした。

「勉強が好きな子はいない」、

「子どもは言うことをきかなくて当たり前」、

「英語力はゼロに等しい」、

「それでも留学はできます」

と私はカウンセリングでよく言いましたが、実はおおよそが今まで、お母さんから聞いたことを集約して子どもの実情を表現し、それでもなぜ留学できるかを説明していたわけです。

留学を考える親が一番大切にしたいのは、「この子が納得する人生を生きて欲しい」という想いだと思います。そして、親も子どもの生き方に納得したいのだと思います。

 

 

 

「納得」できる状況を親が求める場合もありますし、

子どものほうから言い出す場合もあります。

子どもたち自身が現状に不満であっても、なくてもそれは、

人生のアップグレードかも知れませんし、方向転換なのかも知れません。

いずれにしても、親の覚悟は「この子がこれから生きてゆくのだから」

ということです。この子ができる範囲で考えてください、

「この子は不器用な子なんです」とお母さんはいいます。

 

 

 

こころに焦点をあてる。私はいつも、いつでもそれを中心に置いて

それぞれのケースについて考えたいと思っています。

経験と知識に自信はあります。しかし、この仕事はやればやるだけ

自分の知識と経験がいかに小さなものかということを考えさせられます。

 

 

 

行き着くところは人のこころしかありません。

それを異文化に演出してもらっていると思っています。

 

 

 

私は、若い人たちの可能性を見出したいと思っています。

あえて異文化のなかで生きることにより、その厳しさ、自分の弱さ、強さ、

そして、社会性、すなわち人々との関係性を築くことを

これからの世代に異文化という環境の中で学んでもらいたと思っています。

 

 

 

これからの家族を考えるにあたり、自分の思いを述べました。

漫画チャーリー・ブラウンとスヌーピー:2

チャールズ・シュルツの漫画、peanutsはシュルツ自身の人生観、世界観であるということを先日のブログで述べました。コージとMichelleのレポートはさらに進みます。

 

フットボールゲームをライナスがテレビで観戦しています。負けていたホームチームクォーターバックのレフトエンドへの完璧なパスを受けたレシーバーが敵をかいくぐりタッチダウン、それを見ていた観衆が興奮し、狂喜するさまをライナスは一気にチャーリーに語ります。それを受けてチャーリーは、

 

What the other team feel?

 

敗者の心境を慮ることはむしろ東洋の伝統ではないか、礼に始まり礼に終わると言われている剣道の精神や、勝つと思うな思えば負けよと歌った美空ひばりの「柔」の精神にチャーリーの一言がリンクします。

 

コージ・Michelleのこの漫画に対する評論をまとめます。

チャーリー・ブラウンは自身の敗北を経験している。

チャーリーは敗者の気持ちを理解する。

彼は思いやりについて人に考えさせる。

チャーリーはよい生徒ではなく、スポーツも得意でない。

クラスの可愛い女の子は彼に見向きもしない。

富と力が重視される世界においてチャーリーは敗者である。

しかし、チャーリー・ブラウンは決して負けない。

弱気になることもない。

彼はいつも明日に希望を持ち、チャレンジする。

おそらくはこれが勝者たるものだ。

シュルツの言わんとするところは成功とは、お金、名声、権力ではない。それは希勇気、尊敬、そしてとりわけてもユーモアのセンスだ。(中略)この漫画はこれからも読み続けられるだろう。本当の成功とは、人の気持ちを感じ取り、小さな親切を行い、困難に直面しても希望を忘れない勇気を持つということをPeanutsは私たちに伝え続ける。

 

以上、コージ・Michelleの表彰を受けた学校レポートを訳しました。一行一行に私は勇気と元気をもらう思いです。コージ君とMichelleのコンビは英語圏と日本の良いところをうまく融合させてまとめていると感じるともに、現代の高校生の視点に学びたいと思います。

 

さて、ウィキペディアチャールズ・シュルツを調べて驚きました。1950年に始まったpeanutsは新聞と雑誌に連載されましたが、1999年にシュルツが他界するまで、世界中のメディアに取り上げられ、漫画のみならず、何度も繰り返してテレビ放映もされ、スヌーピーをテーマにした遊園地、企業などが列挙されていました。スヌーピーをはじめとしたグッズの3割は日本で消費されていとのことです。

 

 

確かに都市部では、隣の人の名は知らなくても、スヌーピーを知らない人はいないと思います。ここまで、キャラクターを一人歩きさせたシュルツの漫画の原動力は何なのかと思います。

 

それはおそらくすべての人が生まれながらにして持っているこころの風景なのではないでしょうか。誰でも長い人生のどこかで経験しているよしなしごとなのではないでしょうか。

 

シュルツの「希望」を自分のやり方でこれから留学する生徒たちに伝えたいと思っています。

漫画スヌーピーとチャーリー・ブラウン

ボーディングスクールの授業は、一クラスおおよそ15人以下が標準です。少人数クラスの目的は、授業中の先生と生徒の円滑なコミュニケーションにあります。特に、国語(英語)クラス、歴史のクラスなどは、かなりの時間が先生対生徒、あるいは生徒同士のディスカッションに使われるといっても良いと思います。国が教科書を検定することのないアメリカでは、授業の内容は、広範囲に及びます。スヌーピーチャーリー・ブラウンの漫画もその内容は、ボーディングスクールで取り上げられてもおかしくありません。

半世紀以上にわたって世界中で読まれているPeanuts、主人公のスヌーピーチャーリー・ブラウンのどこに人をひきつける魅力があるのか、それを考え発表した札幌の高校生、コージとMichelleの記事が高校生用の英語教科書に採用されました。素晴らしい内容の一部、ご紹介したいと思います。


父の日にちなんだチャーリーとバイオレットの漫画の中での会話です。
V: My dad has more credit cards than your dad.
C: You are probably right.
V: My dad can hit a golf ball farther than your dad.
C: I know my dad still cuts across his tee shots.
V: My dad can bowl better than your dad.
C: I know my dad still hasn’t learned to give that ball any real lift.
V: My dad can…
C: Wait a minute.  Don’t say any more…just come with me. 
   I want to show you something.
   See this?  This is my dad’s barber shop…He works in there all day long.
   He has to deal with all sorts of people…some of them get kind of crabby…
   But you know what?
   I can go in there anytime, and no matter how busy he is, he’ll always stop 
   And give me a big smile…and you know why?  Because he likes me, 
   That’s why!
V: Happy father’s day, Charlie Brown…
C: Thank you. Please greet your dad for me…


コージ・Michelleはこの漫画を評して、下記、明言します。


Her father’s money and athletic ability cannot compete with a father’s simple love for his son.


彼らに同感です。また、高校生にもわかりやすく、要を得た英語表現に感心しますシュルツがこの漫画でテーマにしたのは明らかにこころの問題です。家族のありかたの彼なりの素直な表現です。彼の幼いころの日常の風景が見えてくるようです。

彼の漫画は紙から動画となり、さまざまなキャラクターグッズが世界中で売られ、アポロ宇宙船が月面着陸した時、その母船がチャーリー、月面モジュールがスヌーピーと名づけられ、まさにアメリカを象徴する人気漫画筆頭となったわけです。

その核心は、シュルツのこころのなかの家族、友人、学校、地域、街などの人々の日常の行いの中にありました。「こころは見えないけれど、心遣いは見える」をそのまま漫画にした、シュルツという人が「世界」を魅了したわけに納得しています。

彼は半世紀以上も前に、グローバルな意識を漫画という手段を使って、具体化しました。世界を結ぶネットワークも技術もない時代に大変シンプルな手段を用いて、人々のこころに笑顔をもたらし、希望と夢を与えた功績は偉大に思います。