日本の大学受験というシステム

日本では、大学受験に良い結果を出すために多くの親が一所懸命に小学校のうちから子どもの教育に取り組んでいます。良い結果とは何でしょうか。多くの受験生が、「第一志望への合格」と答えると思います。では、受験生の大学受験の優先順位は何でしょうか。偏差値ではないでしょうか。偏差値によって自分が合格できる学校が割り出されそのランキングのトップが第一志望となるのではないでそうか。なるべく公平に、平等に、受験機会を与えて、その結果で、合否を判定する、試験を中心にした日本の大学受験はとてもフェアーなものだと思います。

 

その試験の中身ですが、教育は本来とても幅の広い人間の知的活動範囲に及ぶものですが、現代の日本の教育制度を象徴する試験は明治時代から現在まで一貫した基準でがあるようにもいます。その基準を満たした人が合格を勝ち取り、社会を構成する要所に配置されるようになっているように思えます。

 

たとえば、これからの時代は想像力、発想力、コミュニケーション力がとても重要なことは間違えありませんが、それを試験で評価することが可能でしょうか。不可能ではないにしても、1年に1回のテストでそれを評価したり、採点したりすることは、本来の教育が目指すところなのでしょうか。

 

アメリカではSATという学力判定テストは、年に何回でも受験することが可能であり、その結果、上位を占める生徒たちの点数は、ほぼ満点となり、SATでは合否を判定できないので、普段の成績や特技が判定の大きな基準となっていわゆるAO入試システムを作っているわけです。

 

日本の文化の特徴として、公平性、平等性を保つために、試験は厳重に管理され、年に1回という基準は崩れません。このシステムに風穴をあけるのが、日本式AO入試であると思いますが、実は受験関係者にとっては、AOというのは不平等であり、

海外教育修了者に対する特典的処置としてそもそも発展したものであり、日本の受験システムを覆すには至らないマイナーなものであると受け止められているようです。

 

問題は、受験というシステムそのものではなく、その次にある社会への貢献とか、

積極的参加にあるのでしょうが、試験に合格するために徹底して勉強に集中するように幼少からトレーニングされ、結果として規格化された人間が増えるだけで、グローバル社会に対応できると思うのはある意味、幻想になりつつあります。

 

これは日本だけが持っている問題ではありません。どこの国でも、世の中が安定して、国の威力が世界で認められれば、認められるほどに、顕在化する「教育」の問題点となっています。

 

解決策をシステムの中に期待するにはとても時間が足りません。したがって、受ける側が積極的にその世界を変える意識を持たない限り、既存のシステムの打破難しいということになるのでしょう。